トップ  コラム 西村敏彦のほらふき・ドンドン 「林住期」の建築観−何よりも「カオス」を愛す
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西村敏彦のほらふき・ドンドン

 「林住期」の建築観−何よりも「カオス」を愛す
 私は来年(2009年)3月で満55歳を迎える。五木寛之氏が言うように、55歳以降を「林住期」と称して仕事をシフトダウンするのも悪いことではあるまい。思えば「工務店」の三代目として生まれ、家業を嫌い「土木」に曲がったものの結婚を期にブーメランのように「建築」へ戻ってきてしまった。いわゆる修行時代が短くて、29歳で二部の建築学科に学士入学し、昼は設計事務所、夜は大学と言う日々が32歳まで続いた。普通はたっぷりとある"モラトリアム"の時間に建築的教養を深めて、自分のアイドルである建築家(それもコルビジェだのライトだのカーンだのというオーソドックス建築家)に傾斜してゆくものである。私の場合は少し変わっていた。
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 下水道設計をやっていた1980年前後の頃、東京・三軒茶屋の下水道設計の仕事で現場に出ている時、とても面白い建物に遭遇した。それは石山修武氏設計の「望風楼」という建物である。この建物は住宅であるが「建築」として整合性には向かっていない。屋根の形態が不揃いだが、廻りのハウスメーカーの○○風や△△風が切り取るTОKYОのスカイラインに奇妙に調和していた。テンデバラバラだが、均質な町並みに対してこの建物はみずから存在の意義を示している。TОKYОの町の末端まで埋め尽くされていたハウスメーカーの工業化住宅=商品化住宅に素手で戦いをいどんでいるようであった。異形でありながらも妙になつかしく、バッラク風でありながらも建築のツボはちゃんと抑えてあった。近代建築を生み出した初期の理念は断片化されハウスメーカーの住宅として都市の中にまきちらされ、あるいは新宿西口の摩天楼群のごとく技術主義の牢獄として集中化されていた。その中で石山氏はアジア・ユーラシアから「群居」という原点を導き出そうとしていたのだった。
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 石山氏は均質的な町並みに対峙させるため、その「望風楼」の<基本的なコンクリートの躯体がそのまま在ることにどうにも耐えられなくて、つまり建物が近代建築らしく在ることがひどく卑猥に思えて、それは当事考えられるだけの方法によって隠された。ギザギザ、ジャラジャラ、ガンガン、バリバリと建築物は各種の変テコリンな屋根飾りで飾りたてられたのである。その思いが高じて、建築物の一部の屋根はフリーハンドのギザギザになっている。ガチャガチャ付けた屋根飾りさえも、しまいにイヤになって壊したくなってしまった名残りである。型枠職人にもサジを投げられ、ハンマーもって屋根に上がり、本当に飾りの一部を壊そうと、なぐりつけたり、たたいたりの四苦八苦、壊そうとしてもなかなか壊れないので途中で止めた跡が、何やらまた装飾的身振りに見えるのが、今はホロ苦いほどなつかしい。まったく、なすすべがなかったのが良く判る。なすすべがないままに建てなければならなかったのだから、建てながら、同時にこわしてゆくといった方法しか取りようがなかったのだ。>
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 この「望風楼」で石山氏は<倭風>というものを提言している。<倭風>は<ニッポン風>でもなく<和風>でもない。古来日本人は大陸からの文化の持ち帰りに没頭しながらもそれを濾過し、漂白し、植物性のものに昇華させていった。その濾過されたものが<和風>であり<ニッポン風>である。<和風>が数奇屋へのベクトルなら<ニッポン風>は民家へのベクトルといいかえてもよい。石山氏のいう<倭風>とはアジア、ユーラシアから日本を見返すという視点である。「望風楼」には屋根飾りの雲形・ツートンカラーを生み出すモールディングの家形や波形や風形のアジア、ユーラシアの記憶をコラージュしている。私はそこに明治初期の擬洋風建築や伊東忠太の「築地本願寺」やアントニン・レーモンドの「日光別荘」などと同じテイストを感じ、心ひかれてしまうのである。
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 こういう私の趣味を配偶者は「無国籍趣味ダネ」と笑い、熊本県玉名市在住の建築家・永井さんは「なんか西村さんは焼跡闇市派みたい・・・」とタマゲル。それに応えて「どうせ私は『バラック趣味』ですよ・・・」とウソブイテイル。
 林住期を迎える私としては初発の『倭風』という所にかえり、縁ある人々とボチボチと仕事をやってゆきたいものだと考えている。
 

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