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西村敏彦のほらふき・ドンドン
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| 林住期の建築観―「看板建築」から「知的バラック建築」へ(1) | |
以下の文章は工学院大学建築学科(U部)の1986年度卒業研究の論文概要である。タイトルは『「看板建築」あるいは大正のポスト・モダン』としている。若書きで≪汗顔一斗≫の極みであるが、あえて載せてみる。
看板建築はすでに藤森照信によって一応の概念規定が定められているが、一般に定着した言葉ではない。時期的には、大正13年の関東大震災の復興期、すなわち大正末から昭和初期に駆けて建てられたものである。その構造はふつうの木造和風建築の店舗の正面だけを、あたかも屏風あるいは看板のように西洋建築らしく飾り立てたものである。 看板建築は江戸期よりの町屋の近代における最初の発展段階を示す昭和初期の都市住居形式である。町屋とは公共の道に面し店機能と住居機能を持つものである。店機能は建物の1階表半分で果され、家族と使用人の住機能は裏半分と二階で果される。住居部分は伝統的町屋形式を踏襲し洋風は混入しない。店舗においては表部分を洋風、奥部分を和風と2分する。つまり、伝統的町屋形式の表側一部に洋風が導入された平面となる。 屏風状のファサードは木骨を何らかの材料で被覆してつくられる。量的にはモルタルコンクリートが第一であり、次が銅版張である。銅版張りの表現は「網代紋」「青海波」などの和風文様のパターンを使用している。様式化された伝統的文様を外部面における装飾要素として使用する場合、その装飾志向は全体のプロポーションというような外観をスタイリッシュにとらえるのではなくて、細部のテクニックに重点がおかれている。モルタルコンクリートの方は、アーチ等の外来要素を基調とし、時には和風の破風などが折衷される。各デザイン要素の『数量的なものと位置的なもの』は無視されている。 国家主導の《国を飾る》建築を官の系譜とすれば、棟梁・職人主導の町々の建築は民の系譜と呼び得る。民の系譜の建築には大衆的想像力の発露を読むことができる。まず近代日本おける大衆的想像力は、世界最高の水準にあった大工・左官の技術を背景にして、文明開花期の「様式の真空の中で」「和洋折衷建築」として花開いた。近世から近代への橋渡しの時期である明治後期には、都市の意識が民衆にも芽生える。その反映として文明開化のシンボルである《塔》のある建物が街角に建ち始め、「洋風に似て非なる建物」と呼ばれるようになる。更に近代の大正になると、大衆社会を反映して中小商店まで「看板建築」として表現意欲・建築趣味を表出しようとする。大衆的想像力を取り囲む建築的状況を藤森照信は『旧物の崩壊がありながら、新しい建築原理は手の彼方にあり、そうした様式的真空状態の中で表現意欲が横溢する』と表現している。このように市井の人々はあらゆる建築を手がかりとしながらも何物も手本とせずに、自身の造型を創造したのであった。 理想に燃えた社会的目標を発見し難い状況の中で、現代の建築は混迷状況にあるといってよい。これを打破するために、ポストモダニストたちは、形と機能の間の関係に融通のきかない近代主義を逃れ、形のために自由を獲得しようとする。そのためには歴史的事物をそれらが結び付けられていた文脈から切り離したて、異化や組み換えによってアイロニカルな表現を試みようとする。このような操作の中に建築の意味を探ろうとする手法は、明治以降の民の系譜の建築で、棟梁・職人が西洋様式を土着の中に定着させた《無意識》の手法との相似性を見出せる。異質な建築原理を建築の形で定着させようとする時、彼我の建築単位の中に相互に交換できるものはそれを以って翻訳と成すのである。開智学校を例にとれば、渦形装飾が和風の絵様で装われ、フルーティングに胡麻決りとして表れたりする翻訳が《無意識》の手法の構造なのである。「看板建築」においても棟梁・職人達はノンシャランと《無意識》の手法を発揮し、あらゆる建築を手がかりにしながら、ファサードに様々なデザイン要素を張りつけてゆく。それは人目を引く必要のある商店建築(大衆消費社会を背景にした)が選び取った方法なのであった。「看板建築」はまさに、R・ヴェンチューリが商業的ヴァナキュラーから導いた『装飾された小屋』そのものなのである。 (つづく) |
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