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野池政宏のこらこらコラム
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| 「B級的自然住宅のススメ」第3回 |
| B級的なものの味わいは時間の経過によって生まれてくる。そしてそれはモノに刻まれた時間の経過だけで生まれるのではなく、そこに人の暮らしの息遣いが、いい意味で澱のように蓄積されることが必須条件となる。 200年前に建てられた古家に移り住んでも、そこに住み始めたばかりのときにはその家と住まい手とに距離感があって、味わいのある空気にはならない。もちろん、新しい木材にベンガラを塗って古く見せようとしても薄っぺらな感じがする。 私の好みなのかもしれないが、立派な古民家(+そこでの暮らし)に感じる空気よりも、昭和30年代ごろにきちんとしたつくり手によって建てられた、さほど大きくない庶民の家にうまく住み続けている家の空気のほうに親近感を覚え、素敵だなあと思う。こうした家になるには、いくつかの条件が整わないといけない。まずは家を建てるときにちゃんとしたつくり手を見つける眼力を持っていること。もちろんいいつくり手に仕事を頼むには少々の出費を覚悟しなければならない。こうした「いいお金の使い方」を知っていること。 また長い将来にわたる自分たちの暮らしを見通 し、それを設計に生かしてもらうこと。さらにその家で地に足のついた暮らしを続けていくこと。ただしこれは家とはまったく関係がない。ただその日その日を自分たちのペースでしっかり生きていくということだ。もちろんそうした暮らしをすれば家を大事にするだろうから、日々の暮らしの家事の一部として家の手入れも怠らないだろう。家の中にモノがたくさんあっても、それが日々の暮らしの中で必要なのであれば、きっとそれはごちゃごちゃした感じにはならないだろうし、住まい手の暮らしの息遣いで温かみを感じるに違いない。 私がいいたいのは、あくまで家というのは生身の人間が暮らすところだということだ。オフィスとは生身の意味が違う。そのことを忘れて表面 的、刹那的な家を追いかけてもただ箱をつくるだけの作業になってしまう。家は他人に見せるために建てるのではない。大きなリビングをつくって、小洒落た家具を最小限にして置いて「まあ素敵」と訪問客に言われたとしても、それに何か意味はあるのだろうか。 住宅雑誌を見れば「私もこんな家に住みたい」と思うだろう。でも本当に住宅雑誌そのままの家に維持できる人はほとんどいない。維持できる人は他人に見せるために美しい部屋にするのではなく、本当に自分の喜びとしてそうしている人だ。 私の家の近くに「きっと新築当時はなかなかオシャレだったろう」と感じる酒屋がある。しかし今では「一部のオシャレな名残り」と「使い切れていないその後の店」とに何とも言えない陳腐さが漂い、悲しい店になっている。おそらく家を建てることでもっとも悲しいのはこういう状況だろう。アパートに住んで子育てに追いかけられていて片付かない住まいのほうがずっと健康的で、ある意味美しい。 |
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